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フォーラム記事

おじじ
2018年9月23日
In お便り帖
 昨日は第2回でした。兵庫からの方が初参加でしたのでイノリノエの考え方について、また改めてお話をしました。昨日のまとめを簡単に述べたいと思います。  ①個人が対象の祈りは多くの場合、祈りではなく念です。なぜなら自分が良しとする価値は、その人にとって本当に良いものなのか、分からないからです。例えば貧乏な人がいます。「あの人にお金が入りますように」と祈っているとします。しかしお金があることが本当に良いのでしょうか?お金が無い方がその人にとっては実は良いからそうなっているのかもしれませんせん。我々にとって注意すべきことは、簡単に思いつけることというのはしばしば常識の刷り込みだということです。お金が入ったら自分をコントロールできなくなる人は、その潜在意識が自らお金のない状態を作り出しています。ここで話は完結しているので、それ以上のものを外から付け足そうとすることは蛇足ですし、また混乱を引き起こすことすらなります。同様の話がお金、結婚、出産、病気から回復、など色々あるはずですので皆さん思いを巡らせてみて下さい。  ②ですから祈るということは基本的に宇宙、世界、全体に対してするべきことです。祈るということは交流するということです。つまり奉仕と享受がそこではセットになっています。森のきのこを再び想像して下さい。きのこは近くを通るてんとう虫や近所の花のために奉仕することを目的とはしていません。彼らは彼らで生きています。その邪魔をしないことも大切なマナーです。すべての命は森という大きな環境の中で生き、そこから享受しそこに還元します。このような在り方は双方向的と言います。つまり「存在自体が祈りとなる」ということですね。祈り=奉仕と安直に考えないようにしましょう。上述のように幸せを願いたい個人がいる場合、その人に向けてダイレクトに祈るのではなく、森という全体に対して祈りの関係を築くようにしましょう。そうすれば浄化された同じ森の中に生きる友人のきのこが幸せになることも当然続くからです。(もっとも純然たる他者への祈りというのもあるので・・・いずれ良い機会を待って語りたいと思います。)    昨日話したことの書き漏らしや質問があったらして下さい。  祈りに対する理解は日々深まっていくものです。迷ったり分かったりということを繰り返しながら深まっていきます。このフォーラムではコメントに対してコメント、ということが出来ます。皆さんには僕の書いた記事にコメントすることをお願いしていますが、そのコメントに対して思うことがあればコメントをして下さい。僕との一対一に留まらない皆さん同士の間での横の繋がりに強い期待と希望を寄せています。コメントする際は、すでに皆さんそのようにして下さっていることですが、素直に心のままに、できるだけ饒舌に語って下さい。なぜなら自分の心と頭を使うことによって、祈りという高い観念が次第に自分のものになっていくからです。決して「生徒」にならず、自分自身が祈りについて語れる祈り人なのだという自覚をもって参加して頂ければ嬉しいです。勿論、思うことがあれば書く、という自然体は忘れないで下さい。  
第2回 9月23日 content media
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おじじ
2018年9月02日
In お便り帖
 昨日はイノリノエの記念すべき第1回目でした。お集まり下さった皆さん、ありがとうございます。大阪からわざわざこのために来て下さった方もあり、本当に嬉しく思いました。昨日の話を簡潔にまとめてみたいと思います。  祈りとは、型の決まった行ではなく、日々の心です。そしてその日々の心は自分自身に対する絶えざる反省や疑問によって、誠実に、賢明に、筋の通ったものにしていく必要があります。例えば「誰かが幸せになりますように」と祈るとします。そんな時「祈る前になぜ自分で出来ることをやらないの?」という自分自身に対する厳しい、素朴な問いかけが、祈る心を育てていくのです。その上で改めて「誰かが幸せになりますように」と祈る心が自然と湧いてくることもあるかと思います。僕たちはシリアの話などを例に取りましたね。自分の言う祈りは「自然な感情の発露なのか」「ただ具体的努力や現実直視を怠けたいがために言っているだけなのではないか」というふるいを、我々は常にかける必要があります。  祈る心はこのように日々考え、感じ続けることの中でゆるやかに形成され、深まっていきます。そのために自分の心の中でだけの自閉的な呟きにせず、人と言葉を共有し態度で示していくことが必要になります。そのためにイノリノエの参加や『お便り帖』での交流という機会を用意していますので、積極的に利用して下さい。  祈る心は能動的なものです。祈る誰かの言葉や声をどんなに取り入れても、受動的立場に徹している限り祈りにはなり得ません。心に素直に、祈りたいと思う自分の真心を、隠したりはぐらかしたりしない生き方を日々送りましょう。  祈ることを具体的行為としてする時は、ただいつものように瞑想をしましょう。祈るという自覚のもと行われる瞑想は祈りとなります。特に唱える文言も必要はありません。正しい姿勢、圧迫されていない内臓、深い呼吸を保ちましょう。  環境と調和する、生かされていることを知る、恩返しをする責務がある、自分に嘘をつかない、自分が自分のままであることの先にある良い影響関係に明るい展望を持つ・・・こういうことが祈る心の内容になります。これらはすべて浮き沈みを繰り返しながら一生をかけて育んでく感性です。  昨日は『テラへの祈り』を終了後に歌い、祈る心を皆さんと共有できたかと思います。祈りを含めてすべての心は、言葉だけで伝わるものではなく、またすべてが理屈でもありません。言葉や理屈を超えて自分の心に震えるものはこの世界に満ちています。そのような瑞々しい心で空を見て、木々を愛で、人と語らい、食事をし、このように生きていきながら自分だけの大切な感覚を深めていきましょう。  ありがとうございました。  
第1回 9月1日 content media
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おじじ
2018年8月23日
In お便り帖
 おはようございます。  イノリノエ、最初の投稿です。  イノリノエでは、人類社会や地球に対して参加者の皆さんと祈っていく、という活動をしていきます。どうぞよろしくお願いします。  この思いの始まりは、今となってははるかな昔です。20年前のまさに今月(8月)、ふとしたきっかけで「人間社会はこのままではいけない!人間社会を良くしたい」と僕は強く思うことがありました。それから教員を目指し、違うと思い小説家を目指し、これも違うと思い諦めた頃にヒーリング能力が目覚めました。その時僕は「この力で世界を救える」と本気で思いました。それは誇大妄想かもしれませんし、正しい直観かもしれません。まだ結果が出ていないので分かりません。ただ自分が自分の内側で感じる初めてのこのチカラは、僕にそれだけのことを平然と思わせたことは事実です。  最初の頃、僕はヒーリング能力の功罪や危険に対してまったく無知でした。良くも悪くも自由に自分の思いのままに使っていました。僕は「人間は肉体が健康になれば精神も幸福に満たされる」と楽観的に信じていました(今は話はもう少し複雑だということを理解しています)。何もかもが新鮮だった最初の時期、僕は出歩けばその先で出会う人たちに随分な量、無料でヒーリングをし続けました。風貌が変わっているので「何をしている人ですか」と訊かれるのは今も変わりませんが、そこから自然とヒーリングの話になり、ヒーリングを実際にその場でしてあげます。するとものの数秒で症状が治るのでみんな驚きました。僕はますます力への確信を深めました。同時にアトリエにもお客が来るようになり、僕はようやく27歳で経済活動を始めるに至りました。仕事の仕方は今より全然無防備でした。相手のすべてを汲んであげてボロボロになることしばしばでした。  だんだん僕は、お金をもらうことへの責任や、正しく理解されないことへの不満や、結果が出ないことへの焦りや、結果を出すことへの手堅さを、知らず知らず求めるようになっていきました。最初は手に余ったヒーリング能力もそのうちコントロールできるようになって、より良い仕事を出来るようになっていきましたが、一方で「自分のためより社会のため」「人のためより地球のため」という自分の本来の感性を弱らせていってしまいました。自分の中に満たされない何かが残り、それが「奉仕の営みをしていないからだ」と分かった後でも「でも世の中を良くするなんて結局出来ないだろう」と諦めている自分に気が付きました。  それから過去の思いを鮮明に蘇らせようと努めました。ヒーラーになる前の時代、僕が思い描いていたのは「人間は美しい。人々がその美しさで共鳴し合えば地球はもっと良い星になる」というものでした。僕は慈善や保護などの具体的な活動もさることながら、心がもっと大切、と位置付けています。多くの人は「人間はみんな弱みがあるし、問題もあるし、仕方ない、それで良いでしょうそれなりで」と言っています。でも僕は弱さで馴れ合うのではなく、素晴らしさを讃え合う関係の方が理想的だと思っています。ただ勿論、そこには努力や自覚が必要です。「そういう目」で世界を見て、「そういう心」で世界に生きていく毎日が必要なのです。馴れ合いは楽な道です。でも「いいでしょう、これくらい」「仕方ないでしょう、こういうことは」という馴れ合いこそが世界を破滅に向かわせていく元凶なのです。世界の問題や個々の人生の問題のほとんどは、「曇った心」が甘やかした結果としての現実だと僕には思えます。  祈るということは宗教的な営みではなく、一人一人の日々刻一刻の在り方だと僕は思っています。出会う人に感銘や勇気を与え、寛容さと賢さをもって接してくれる人は、その存在自体が祈りです。なぜならその人と会ったことで、今よりも豊かで優しい人生の風景を見るきっかけを、誰かが得られるかもしれないからです。つまり「世界が幸せになりますように」という祈りはこうしてこうして具体的に、心から心へと伝わってきます。  祈る心というのは、「私は祈っていますよ」などと言わなくても、出会う人の心の隅っこに音もなく伝わるものです。それが今すぐではなくても、遠い将来に幸せの種を蒔くことになります。  祈りは、とても難しいものです。一人では保ちにくいものです。また今すぐの結果が見えないので「こんなことが本当に意味を為すのだろうか」と思いがちなものです。それで僕はイノリノエでは祈る心を参加者の皆さんと共有し、共に祈るということをしていきたいと考えています。僕は舵取りの役ですが、それ以前に一参加者です。  イノリノエを開催するごとに、僕はこの『お便り帖』に感想やレポートなどを書きますのでその回の参加者の皆さんにはお返事を、短くても結構ですので書いて頂きたいと思っています。またイノリノエはやがては外で人を集めるなどして活動を発展させて頂きたいとも思っていますんで、ピンと来た方はお声かけ下さい。  長くなりましたが、第1回開催に先駆けてイノリノエのあらましについて書いてみました。  お読みくださりありがとうございます。                         河邊正則
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