昨日はイノリノエの記念すべき第1回目でした。お集まり下さった皆さん、ありがとうございます。大阪からわざわざこのために来て下さった方もあり、本当に嬉しく思いました。昨日の話を簡潔にまとめてみたいと思います。
祈りとは、型の決まった行ではなく、日々の心です。そしてその日々の心は自分自身に対する絶えざる反省や疑問によって、誠実に、賢明に、筋の通ったものにしていく必要があります。例えば「誰かが幸せになりますように」と祈るとします。そんな時「祈る前になぜ自分で出来ることをやらないの?」という自分自身に対する厳しい、素朴な問いかけが、祈る心を育てていくのです。その上で改めて「誰かが幸せになりますように」と祈る心が自然と湧いてくることもあるかと思います。僕たちはシリアの話などを例に取りましたね。自分の言う祈りは「自然な感情の発露なのか」「ただ具体的努力や現実直視を怠けたいがために言っているだけなのではないか」というふるいを、我々は常にかける必要があります。
祈る心はこのように日々考え、感じ続けることの中でゆるやかに形成され、深まっていきます。そのために自分の心の中でだけの自閉的な呟きにせず、人と言葉を共有し態度で示していくことが必要になります。そのためにイノリノエの参加や『お便り帖』での交流という機会を用意していますので、積極的に利用して下さい。
祈る心は能動的なものです。祈る誰かの言葉や声をどんなに取り入れても、受動的立場に徹している限り祈りにはなり得ません。心に素直に、祈りたいと思う自分の真心を、隠したりはぐらかしたりしない生き方を日々送りましょう。
祈ることを具体的行為としてする時は、ただいつものように瞑想をしましょう。祈るという自覚のもと行われる瞑想は祈りとなります。特に唱える文言も必要はありません。正しい姿勢、圧迫されていない内臓、深い呼吸を保ちましょう。
環境と調和する、生かされていることを知る、恩返しをする責務がある、自分に嘘をつかない、自分が自分のままであることの先にある良い影響関係に明るい展望を持つ・・・こういうことが祈る心の内容になります。これらはすべて浮き沈みを繰り返しながら一生をかけて育んでく感性です。
昨日は『テラへの祈り』を終了後に歌い、祈る心を皆さんと共有できたかと思います。祈りを含めてすべての心は、言葉だけで伝わるものではなく、またすべてが理屈でもありません。言葉や理屈を超えて自分の心に震えるものはこの世界に満ちています。そのような瑞々しい心で空を見て、木々を愛で、人と語らい、食事をし、このように生きていきながら自分だけの大切な感覚を深めていきましょう。
ありがとうございました。

先日は、ありがとうございました。 皆さまと穏やかな温かな雰囲気の中でお話をお聞きして、祈りとは何か…と頭ではなく、じんわりと心で感じることができたと思っています。 私は祈ること…は想うこと、と感じていて、祈りたい気持ちが湧き上がってきた時に、言葉には殆どせずに(言葉にするのが難しいということもありますが)形式に囚われない自分なりの祈りをしていたのですが、河邊さんのお話にありました“祈りの瞑想”に近いことをしていた気がします。 私は静かに座って特別に祈りの時間を作るというよりも、外を移動中に空や木々(そこから地球や人々)に向かって歩きながら祈っていることが多く…自由にしていたので、心の何処かに、自己満足なのでは?という気持ちもありましたが、今回色々とお話をお聞きして、信じる心が大きくなりました。 内側からの自分の感覚に正直に、これからも自然に続けていきたいと思います。 そして、続けていくためには自分の心を美しく保つことがとても大事だなぁと感じました。生活していく中で日々色々ありますので、そこがまた難しくもあるのですが、流されないように努めたいと思います。 また、そのような想いを自分の中に留めるだけではなく、共有できる場があるというのは嬉しいことですね。^^ 次回もどうぞよろしくお願いいたします。